第1次競馬ブームをアイドルホース:ハイセイコーと共に牽引した1970年代前半を代表する2強の一角!
タケホープ!
アプリ『ウマ娘プリティーダービー』新シナリオ「The Twinkle Legends」に姿を表す新ウマ娘はこの方ではないかと予想!

おはようございます。『ウマ娘シンデレラグレイ』の🎞️映画化を心から夢見ています!
ブログ管理人のあーさんです。

2025年2月。アプリ『ウマ娘プリティーダービー』に新風を巻き起こすことを予感させる新シナリオ「The Twinkle Legends」の発表がなされましたね。
詳細発表は2025年2月22日の生放送とのこと。
「ぱかライブTV Vol.50」は2月22日(土)20時に放送!4周年の最新情報などをお届け!
そこで本記事ではキービジュアルに写っている3名の肖像画が一体誰なのか・・・について予想してみたいと思います。
予想が🎯的中しているかいないかはわかりませんが、こういうのは考えている時間が一番楽しかったりします。

本記事で取り上げるのは名馬タケホープ。
第1位次競馬ブーム。
1970年代前半に起きたムーブメント。当時まだ🎰ギャンブルの1種としてのイメージが強かった🏇競馬が一般層に受け入れられるようになった競馬史を語る上で欠かせない出来事。
地方から来た野武士ハイセイコーの活躍がそのムーブを引き起こす🔥火種でした。
だが、その火種をより大きくできたのは間違いなくハイセイコーのライバルとなったタケホープの力があってのもの!!
本記事では怪物と呼ぶに相応しいハイセイコーと肩を並べたタケホープの軌跡をご紹介していきます。

それでは前置きはこれくらいにして、本編スタート!
日本ダービー・菊花賞を制した2冠馬タケホープ

1973年の日本ダービーと菊花賞。現代のGⅠに相当するレース(当時はまだG1などの格分けはされていませんでした)を2つも制した2冠馬。それがタケホープ。
引退後の実績だけピックアップすると非常に優れた名馬であると言えます。
日本ダービー・菊花賞。共に走行距離2400mを超える長距離レース。タケホープは長距離戦において絶対的な強さを発揮する名馬。
だが、そこに至る道のりは決して平坦ではなかったということも記録から伺うことができる。
その道のりを追っていきましょう。
1972年7月〜12月 3歳までの勝ち星は1つのみ

1972年7月15日のデビュー戦。タケホープは快勝を果たします。
しかし、ここからが苦難の道のりとなった。
1勝もできない状況が続く。2着も3着も取れないまま半年間6連敗を記録してしまう。
出走したレースは全て1600m以下の短距離レースばかり。この時期は適正距離とまだ巡り合えていなかったのであった。

1973年1月〜11月 ギリギリで掴んだ日本ダービーへの出場権と名馬への覚醒

2勝目を挙げたのは4歳(当時の馬齢表記)になった1973年初頭のレース。
そこから4月末のレースでも何とか1勝をもぎ取る。
かろうじて日本ダービーへの出場権をギリギリで獲得することに成功する。
だが、この日本ダービーがタケホープの馬生を大きく変えるターニングポイントになるのだから競馬が紡ぐ物語は面白い!
怪物ハイセイコーを打ち破る伏兵としての覚醒
日本ダービーで人気を集めていたのは地方大井と中央移籍後で合計10連勝を果たしている稀代の傑物ハイセイコー。
その強さは単勝支持率66.7%という驚異的な数字が物語っている。
だが、タケホープはこの怪物に打ち勝つ!
9番人気で迎えた日本ダービー。レース直線で粘るハイセイコーを鮮やかに差し切り勝利を掴むのであった。
菊花賞で証明したライバルの座
続く京都新聞杯では8着という結果。同レースに出場していたハイセイコーは2着。タケホープの日本ダービーでの勝利はまぐれか何かと囁かれる。
「アイドルホースをまぐれで破ったダービー馬」という敵役での評価がついて回るようになってしまう。
これを受けてタケホープを抱える陣営も黙っていない。来る菊花賞。打倒ハイセイコーを誓うのであった。
迎えた菊花賞。タケホープは6番人気という微妙な数字。
だが、ファンの期待を大きく裏切りここでもまた名レースが誕生する。
レース最終局面。第4コーナーで後続に5、6馬身の差をつけて首位を独走するハイセイコーに迫る影があった。タケホープである。
最後の直線で両雄の一騎打ち。ゴールに到達したのは両者ともほぼ同じタイミング。📷写真判定に結果を委ねることとになる。
判定の結果、その競り合いをハナ差で下し勝利を掴んだのはタケホープであった!
これで2冠を果たすとともに、ハイセイコーに2度も打ち勝った名馬として多くの人がタケホープの強さを認めることになる。
ダービーと菊花賞を制したタケホープはその年の年度代表馬に選出され、「アイドルホースをまぐれで破ったダービー馬」という汚名を拭い、「ハイセイコーのライバル」として認められていくのでした。

ハイセイコーとのライバル関係

ハイセイコーとタケホープのライバル関係は続く。
1974年明けのアメリカJCCではタケホープに軍配。
中山記念ではハイセイコーの勝ち。
と、一進一退の激突が続く。
そして、頂上決戦と呼ぶに相応しい舞台:天皇賞・春でも両雄は競り合う。
ハイセイコーは早仕掛けという策に打って出るが途中で失速。それを尻目に大きな差をつけて1着を掴むタケホープ。
これで日本競馬八大競争の3勝目となる!
引退レースとなった有馬記念

1974年末に有馬記念。
タケホープはハイセイコーと共に引退レースを飾ることとなる。
距離は2500m。タケホープがいくつも鮮やかな勝利を掴み取ってきた長距離レースである。
だが、最後のレース勝利の女神が微笑むことはなかった。
1着は頭角を現し始めた第3の刺客タニノチカラ。
2着はハイセイコーに譲り、タケホープは3着。
幾度となく適正距離である長距離で初めてハイセイコーに先着を許す形でターフから姿を去るのであった。

最後に

いかがだったでしょうか?
今回は第1次競馬ブームを牽引した2強の一角タケホープの歴史をご紹介しました。
私見を述べさせていただくとドラマ性豊かで非常に面白かったと舌を巻く次第。
初期は適正距離と巡り会えず苦戦する日々だったことが予想でき、何とか掴んだ日本ダービーへの挑戦権が大きな転機となっているのが面白すぎる。
ただの無名の競走馬であったタケホープが地方から来た怪物と肩を並ぶに至るというのは一体誰が書いたシナリオなのでしょうね?
肖像画左側のウマ娘はタケホープ?

一応予想記事ですので、よりピンポイントに予想しておきましょう。
肖像画左側のウマ娘がタケホープではないかと思っています。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
当たったら嬉しいし、外れても別記事で名馬の軌跡を紹介できるので良し!
ハイセイコーとタケホープの物語は別記事にて

肖像画右側のウマ娘はハイセイコーではないかと思っています。
タケホープの歴史に大きく関わるハイセイコーは既に過去記事でご紹介しています。
下記にリンクを貼っておきますので、興味ある方は気軽にお越しください。

引退試合で名前が登場したタケホープ。
肖像画中央のウマ娘がそうではないかと睨んでいます。
タケホープが紡いだ奇跡については下記記事でご紹介しています。こちらの物語も面白いのなんの!

それでは今回は以上となります。お時間いただきありがとうございました。


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